メモ

以下、なんとなく考えたこと・感じたことをなるべく整理した形で文字に起こして視覚化しました。ツッコミどころ満載かと思いますので、出来たら香りだけ感じてもらって、参考程度にお願いします。それっぽく書いてあっても、今はまるっきり意見が変わってるなんてことがよくあります。人は変わるからね、

前提として押さえておいて欲しいこと

 

1. 目的

① ある程度の方向性を提示する上で考える材料として

 少し似た、違った話からします。部長やブロック長(ないし、顧問やコーチ)にどれだけの権限が与えられているのか、どこかに明記されているわけではありませんが、概ね、(すごくありきたりなことですが、)良いと思ったことは続け、疑問に思ったことは解消していく姿勢で取り組んでいることと思います。学生の自治による組織においては、「自由を尊重し、各自に任せる」というのが大体なパターンです。自由と言うと聞こえは良いですが、ものすごく無責任でもあります。世界中に自由を否定する人はいないでしょうが、自由は積極的に称賛される概念ではないと思います。「部則」や「長距離ブロック則」は存在しないと認識していますが、私自身、自由であるが故に自由に悩みまくってしまう人も多く見てきました。
 そこで、チーム運営にあたっては、「レールは敷かずとも、全体の方向性を持たせることで、各々がどこに位置取っているのか相対的に評価し、自分が真にすべきことが見えてくる」というのが、適切な手段であるように思います。すなわち、チームの主導者の立場をもってしては、「ある程度の方向性」を提示していくことが必要であるということです。「ある程度の方向性」の中に自分がそれに一致していれば、それに乗っかればいいでしょう。肌感覚的に合わないと感じるならば、全体の方向性と自分の方向性を相対化して評価すれば良いだけです。その過程の中で新たな価値観を見つけたのであれば、それはイノベーションです。幸い、陸上競技個人競技なので、多少の価値観や方向性の違いくらいならば、簡単に乗り越えることが出来るはずです。
 戻ります。上記と同様のことが、「練習メニューを考える」という行為に関しても言えそうです。何も方向性を提示せずに、「全部各々自由にやってね」では、100人に1人ぐらいは信念を持ってその自由を遺憾なく堪能できますが、残り99人は自分がどうしたらいいかわからなくなってしまうでしょう。そこで、多くの場合は、集団の中でやる気と知識のある人が、「ある程度の方向性」としてメニューを提示して、各自それに従ったりするわけです。
 しかしながら、この点、酷なことは、ここでの「集団の中でやる気と知識のある人」は、原点も座標も定められていない真っ白なキャンパスの上で、「ある程度の方向性」を提示しなければならないということです。知識が担保されておらず、経験が薄い以上、間違えた方向性を提示して失敗してしまうこともあるでしょう。この知識をもっと早く知っておけばと後々後悔することもあるでしょう。たった3年間しかない高校生活において、無から創造する時間などは無いわけです。
 そのため、基本的には、こういう人たちの考える材料として、自信をもって「ある程度の方向性」を提示する1つの手がかりになると嬉しいと思い、書くこととしました。「○○に関する××部分について△△とあるけれど、僕たちは□□だと思うから□□でやって行こう」みたいに、より質の高い仮説を立てるために使ってくれると尚嬉しいです。もちろん、個人的に、自分の方向性を定めるために使ってくれても嬉しいです。

 

② 記録として一つ、形に残しておきたいと考えたから

 この集団には何故か、記録を残す文化がありません。故に、過去の先輩たちが何を目標に、どんな練習をして、どんな結果を残し、何を今後の課題としたのか、また、何に悩み、どのように乗り越えてきたのか、何が障害となって乗り越えられなかったのか、を知る由もありません。①と重なりますが、毎年、毎年、真っ白なキャンバスからのスタートで、毎年、同じようなことに悩み、同じようなミスをして、同じことをただ繰り返しているだけとも言えます。その意味では、高校駅伝で入賞した年だって、惨敗した年だって、集団としては何ら変わっていない。練習内容に微差があるにしても、そんなのはほとんど微差で、たまたま速い人が揃っていたから強かった、速い人が少なかったから遅かったに尽きるでしょう。長い目を持って集団を動かせる指導者がいなかった、もしくは自覚が薄い中で、3年もすれば部活の構成員が完全にリセットされるというのも大きかったのでしょう。しかしながら、やはり、たった3年間しかない高校生活において、無から創造する時間などは無いわけです。そこで、未来の後輩たちが同じようなミスをしないように、今後集団として成長していけるように、記録に残して現在位置を明確にしておく必要があるわけです。根拠に基づいて立てられた仮説は支持されればその根拠の延長線上に新たな発見があることと思いますし、支持されなければ新たな要因が必要であることを示唆するため、いずれに転んでも価値があるものになるでしょう。
 個人レベルでも同様のことが言えます。この部活には引退時、後輩たちに向けて自分語りする習慣があります。話すのも疲れると思いますが、聞くのも疲れます。人の話を聞くというのは、自らの経験と照らし合わせながら具体化して想像していく行為でありながら、記憶の想起フル稼働の大変な処理を乗り越えて、人の話に耳を傾け続け、人の話に理解と共感を示す文化が根付いているのは、さすが賢いなぁと思います。しかしながら、ここでの成功体験や失敗経験、教訓などを残せていたのなら、と考えてしまいます。後輩たちに向けて伝えたいと思う割には、爪が甘いのです。
 成功と失敗はセットです。失敗の中から成功は生まれます。人体と言う有限リソースを使うのがスポーツにおいて、「成功するやり方をやり過ぎて失敗する」なんてこともよくあることです。己の能力の限界を極めるとは、そんな成功と失敗の境目を見極めることだとも言えます。この点、成功事例は世の中に出やすく、失敗ほど出てこないものです。失敗事例を残すのは気が重たいものでしょう。ただ、失敗の多くは知っていれば避けられるものばかりです。むしろ、失敗事例をパターン化した方が現実に使える情報になるなんてこともあるでしょう。そこで、多くの経験をさせてもらって考えたこと、また、その前提となる知識の共有を目的に、どこかで一つ、形に残しておこうと考えました。
(これがきっかけになったらいいなぁと思います。)

 

③ (自分が、)インプットしたものをアウトプットするため

 暗黙知言語化というプロセスが、自分のために、頭の中を整理する時間にもなっています。また、個人的に色々見たり、聞いたり、考えたりしてきたことを一旦文字に昇華させ、さよならするための時間にもなっています。要するに、自己満でもあります。

 

 

2. 陸上競技に関する知識の必要性

 スポーツで結果を出すために、必ずしも知識は必要ないと考えています。どっちでも良いです。知っているべき人が知っている程度でいいでしょう。なんなら、むしろ、知らない方が良いなんてこともあるかもしれません。理由の1つとしては、プラセボ効果が期待できなくなることが挙げられます。スポーツにおける理論とは、ヒントの1つ程度であって絶対解ではありません。有名な理論でも原論文を読めば、ほとんど確率論(確率的にあたっている可能性が割と高そうな仮説)に過ぎません。結局のところ、スポーツで勝負強い人は、これをすれば絶対に強くなれる!とか、これを食べれば、これを身に付ければ勝てる!とか、寸分の疑いなく信じ切れる人です。現在、ググりさえすれば多様な情報にすぐあたることが出来ます。あれもこれも調べて、正しいプロセスを追求し、情報を取捨選択していく過程で、プラセボ効果は期待できなくなってしまうこともあるでしょう。以上、結果を出すことだけを考えて、勝負強さとプロセスの妥当性を両立させる点では、相性の良い指導者と会って、その人を信じ切るのが最適解だと言えそうです。
 先に知らない方が良いかもしれない理由を書きましたが、とはいえ、知っておいた方が良い理由もたくさんあります。そこで、ひとまず、陸上競技に関する知識を豊富に持っていることの主な意義を挙げます。

① 行動選択で大きなミスをしないため

 競技力を高める上で、陸上競技に関する知識は行動を選択するときの大きな判断基準として基礎になります。つまりは、基礎となる判断基準を持っていると、仮に100点の選択ができなかったとしても80点、90点の選択をし続けることが可能になる。原理原則を知らずに選択していると、100点の選択をできることもあれば30点の選択をしてしまうこともあるでしょう。この点、行動選択で大きなミスをしないことは陸上競技に関する知識を豊富に持っていることの利点として大きなウェイトを占めます。競技を引退してから、「あのとき、○○を知っていれば...」と、後悔するのはなるべく避けたいものでしょう。この先だらだらと書いてあることも、言われてみれば「あぁ、確かにそうだね」って、簡単に納得できることも多いと思いますが、言われなければゼロはずっとゼロ。その差はとてつもなく大きく、価値があるものかと思います。

 

② スポーツとしてより楽しむため

 スポーツを通じて知識を深め、知的好奇心によってモチベーションをブースト出来れば、スポーツはもっと楽しめることでしょう。自分で見つけた問題へ取り組むとき、その主体性とモチベーションは与えられた問題に取り組む場合と比べて桁違いです。そして、問題解決に向けて自ら深く思考するためには、そもそもの考える材料がなければならず、「何をするか」を考える上で知識はそもそもの前提として必要不可欠になります。また、それらの知識を活用していく中で、自らの身体にかけるトレーニング刺激に対する生理学的な適応を観察してするのも1つ、楽しいでしょう。そうした知識や技術は共有可能で、他分野にも応用可能なものになります。
 加えて、知識や技術、体験等によって構成される専門性を持っていると、どのような動作意識で走ればどれだけの速さと距離を走れるのか、今の自分はどうなっているのか、自らの身体に何が起こっているのか、走りながら1つ1つチェックすることができるでしょう。すると、走ることに伴う苦痛も、多様で膨大なフィードバック信号の1つとして、知性によって相対化されて分解されるなんてこともあるかもしれません。